軍歴証明について①
2023年8月2日
以前ブログ(6/9付)で、軍歴証明とは何かについて説明させていただきました。
今回は、個人で取り寄せた軍歴証明について詳しくご紹介したいと思います。
自分の戸籍を辿った際、古い戸籍に
伯父が比島方面で戦死したことが書かれていました。
伯父は私が生まれる前に亡くなっていたため、戦争に行ったことも
フィリピンで亡くなったことも知りませんでした。
祖父母も他界した今となっては、
伯父がどのような経緯で戦争に携わり、異国の地で亡くなったのか不明です。
軍歴証明から何か手がかりがつかめないか
取り寄せてみようと思ったのがきっかけです。
伯父の所属が海軍・陸軍のどちらか分からなかったため、
まずは、戦没時の戸籍の本籍地である宮崎県に電話で問合せてみました。
宮崎県は、軍人等であった本人が死亡している場合
三親等以内の遺族からの申請が可能であり、調査してもらえることになりました。
調査の結果、海軍に所属していたことが分かったため、
次は厚生労働省に必要書類を送り、軍歴証明が届くのを待ちました。
2ヶ月ほど経った頃、郵便が届き開けてみると
カラーコピーされた18枚もの軍歴証明が入っていました。
手書きで古い資料のため、文字が薄くなっている箇所などありますが
読み取れる範囲で内容を見ていきます。
●履歴原票 1枚
入籍番号・・・佐志整 第13655号
兵種・・・・・整備兵
所管・・・・・佐世保鎮守府
服役年期・・・18.4.20 ~カ年
入籍時学力・・国高修
職業・・・・・農業
特技章・・・・普整 204/303
氏名、フリガナ、生年月日、本籍地、家族構成
こちらの資料から、伯父は国民学校高等科を修了し
志願により佐世保鎮守府に所属していたことが分かります。
入団から戦死までの表には、
フィリピンのプエルトプリンセサやセブの地名の記載があります。
没地がフィリピン方面だったので、関係がありそうです。
表に関しては、昭和18年頃はゴム印が使われ日付や所轄もはっきりしていますが、
昭和20年頃になると鉛筆書きで地名や番号があちこちに書き足されています。
戦争が激化し、個人の情報を細かく書き記すことも難しくなってきたのでしょうか。
●功績調査票 1枚
入籍番号・・・・佐志整13655
所轄・・・・・・佐二団
期間・・・・・・18-4-20
官職(身分)・・二整
任命年月日・・・18-4-20
氏名、本籍、生年月日
こちらはカード式のようになっています。
「履歴原票」にあった
佐世保第二海兵団に入団したときの日付と一致します。
●功績調査票(佐世保) 1枚
入籍番号・・佐志整 第13655号
官職・・・・兵 長 20.3.1
兵 1 18.7.25
氏名、生年月日、本籍、父名
こちらも「履歴原票」と同じように
入団してから戦没するまでの出来事が書かれています。
●死歿者五十音別名簿 佐世保地方復員部 宮崎県 3枚
公表番号・・・・・・⑥5260
死歿年月日・・・20.3.1
死歿区分・・・・戦死(認)
死歿地名・・・・比島
死歿情況・・・・敵上陸軍を邀〇 勇戦奮闘中
特進等級・・・・塾長
死歿地等級・・・上整
葬祭番号、本籍地(遺族現住所)、遺族続柄名、氏名
こちらでは、敵上陸軍と戦ったことが書かれていて、
亡くなったときの情況が分かります。
他の方の部分は不開示となっていますが、
表紙に宮崎県とあるように、同じ県の方が一覧になっているようです。
●戦死者名簿 原本 佐世保地方復員部 3枚
南菲海軍航空隊附として「フィリッピン」群島方面の作戦に参加
昭和二十年二月下旬以来「パラワン」島「プエルトブリンセサ」に於て敵上陸軍を邀え勇戦奮闘したが 戦況次第に不利に陥るに及んで連日肉迫斬込を敢行
部隊の殆んど全員戦歿の為 最後の消息は詳でないが当時同方面の戦況に照し戦闘
特に熾烈を極めた昭和二十年三月一日 壮烈なる戦死を遂げたものと認定
こちらには、最後に所属していた航空隊名や
「履歴原票」にあった地名のプエルトプリンセサでの戦闘の様子が、
詳細に記録されています。
「比島方面」としか分からなかった伯父の戦没地が、
フィリピン群島のパラワン島プエルトプリンセサまで判明したことに驚きました。
ただ、部隊のほぼ全員が戦没とあるように、
戦没日に関しては予測の上で認定されたようです。
~軍歴証明について②~ に続きます。
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